2010年のアートコラム
「日本画」を「世界画」へ
2010.12.22
現在、当館では「日本画の国際化」というテーマの展覧会を開催しています。単に海外を取材し描いた作品を展示するだけではなく、現代の国際人の感覚に合った作品を展示して、そこから日本画の新地平を展望する展観になっています。
最近では、一部の識者の間には「日本画」という呼び方を改め、油絵の「洋画」に対し、岩絵具を使用することから「岩彩画」とした方がよいとする意見が出ています。
フランス近代が生んだ印象派を「フランス画」とは呼ばないとか、イギリスも、ドイツも、イタリアも、アメリカも、中国も、自国の絵画をわざわざ国名を冠して命名していない等です。どうして日本だけが自国の絵画をわざわざ「日本画」と呼ぶのかという否定的な見解です。
いまだに「日本画」と呼ぶから、諸外国からは特殊な絵画だとみなされて、なかなか国際性が獲得できないのだと主張されています。
そこで、いっそのこと「日本画」の呼称を全廃して、もっと普遍性のある名称をあてるべきだという人が現れます。
日本画材の発色の美しさ、千数百年このかた変わらない高度に完成された岩彩と膠の優れた取り合わせを尊重するのであれば、「岩彩画」と呼ぶのがより相応しいという考えです。
これからますます文化・芸術はグローバル化していきます。この展覧会の意義の一つに、未来の日本画を育むきっかけになれば...という願いがあります。
いのちの花
2010.01.13
生命が新生していく初春の頃は、一年の中でも特に改まった気持へと誘うシーズンです。この祈りを意識する季節に、成川美術館では世界に広めたい優れた日本の美質、花の絵を展観中です。本展には、初春を飾るにふさわしい色彩の華と現代日本画の美しさとが横溢しています。世界中の観光客を魅了する現代日本画の代表的な花の絵を選りすぐった絶好の機会です。古代人は、飾り羽や色とりどりの花を身につけて、さらに絵の具で身を塗り重ねました。近年の研究ではネアンデルタール人が貝がらを装身具や絵の具皿に活用したそうです。美をめぐる「花鳥画」のルーツも、人類発生にまでその起源は遡るでしょう。
鳥にように飛ぶことも動物のように走ることもできない花たちは、相手がやって来るのを待ちます。花の美しさは、「千客万来」の待ちの姿勢と関係が深いようです。子孫を残すために美しい花を咲かせて、かぐわしい香りとともに蜜を提供する植物は、生命の根源性と美の至高性とを一致させます。花は、永遠の生命と美とを象徴する重要な絵のテーマです。
新春の晴れやかさを愛でながら、この特別な新生の時期に、箱根の白富士と現代日本画の花の精華とを満喫するのはいかがでしょうか。(写真は倉島重友「白い響」)
モナリザ以上の素晴らしさ
2010.04.02
かつて現代を代表した美術評論家、最高の権威を誇った具眼の人・河北倫明氏は、箱根の成川美術館をお忍びで訪れて、その現代日本画をじっくりと見て回るとともに、大展望室のパノラマに目を休めてから、「この箱根富士の絶景は、ルーブル美術館の『モナ・リザ』以上にすばらしい」と語ったという。一枚の名画や人工的な美観ではなく、四季折々、日々刻々と変化していく箱根の景観美は、一期一会の二度と繰り返しがきかない大自然の眺望である。元箱根を見下ろすその景観美は、遊覧船や舟人と共にある芦ノ湖や富士の表情が、朝霧の中で、雲間と共に、青空を背景に、陽光のきらめきと一緒に、留まること無くと千変万化していく。瞬間、瞬間の借景は、日本美のありかを無言のうちに語りかけている、もう一つの偉大な「移ろいゆく美」である。
世界の至宝「モナ・リザ」の美を凌駕する箱根の景観を幸いにも備える当館は、現代日本画を展観するにふさわしい最良の舞台を持つ。奇しくも河北氏はそのことを語っていたのであろう。
「雨後」制作の思い出(福井爽人)
2010.10.06
開催中の「福井爽人 夢・ロマン・そして...」展では当館のコレクションを中心に、福井ロマンの傑作「刻陰」、「想遠」、「雨後」などの院展出品作をはじめ、インドを舞台にした院展三部作「樹下」、「城下」、「恍日」、その他「冬の部屋」「紀行賦」など画家の代表作をそろえた見ごたえのある展観となっています。「雨後」制作の思い出
私は北海道で育ちました。そこの町には遊園地はありませんでした。公園にこわれかけたシーソーやブランコがあるだけでした。はなやかな遊園地は絵本等で想像するだけでした。東京に来て初めて遊園地に行った時、かずかずの色にぬりこめられ生き物のようにうごめく遊園地のありさまは、その頃十代のなかばすぎた私に多少よそよそしい存在でした。知りあいの人がいくつかののりものにのせてくれましたが、もう歓喜の声をあげるほど、私は無邪気でなくなっていました。私にとりまして遊園地は、知らないうちに通りすぎたものとなっておりました。
今年の六月のある日、小学校一年の一人息子をつれて遊園地に写生にまいりました。平日の遊園地は閑散としておりました。観覧車はけだるくまわり、ジェットコースターがときおりりきんだひびき声をあげておりました。息子は家を出る時、母親に私のじゃまをしない様にと言われておりましたので、写生する私のそばにおとなしくついておりました。
おなかがすき、疲れましたので食堂にまいりました。子供は風車のついたお子様ランチが食べたいと言いました。なぜか私は、ラーメンなら食べさせよう、その他はだめだ、と言ってしまいました。「僕は本当はラーメンが一番好きなの」と子供が言い、私はラーメンを二つたのみました。食堂もすいておりました。子供が食べおわる間、私は又、食堂のガラスごしにスケッチをしました。ウエイトレスが、子供に話しかけておりました。
私は子供の手をひき、遊園地をあとにしました。のりものにひとつものせてやらなかったこと、風車のついたお子様ランチを食べさせなかったこと、をすくなからず後悔しながら。遊園地とは子供にも大人にもむなしく淋しい思い出なのです。もし遊園地に詩(うた)があるとしたら静かで淋しい詩でしょう。
私の場合、絵とは形と色で詩を描くことだと考えます。私の絵はまた未熟だと感じます。むだをとりもっと深く真心にせまる仕事をといつも願っております。この絵を好きになってくれた人がいて・・・というお話を今泉さんから聞いた時、私は本当にうれしく思いました。今後も御好意におこたえするような精進をしなくてはと感じております。
昭和五十一年十二月 福井爽人