「私のできる事」(齋 正機)
2011.09.01
この度の東日本大震災により被災された方々に心からお見舞い申し上げます。
そして、一日も早く安心の日々を送ることができるようお祈りしております。
いつでもそうだった。良い絵を描こうとすればする程、自分から絵が遠ざかっていく。全く絵というのは厄介で不思議なものである。平凡な家庭で生まれ育った私が、頭の中で考えた事によって人様に伝わるような素晴らしい作品を生んでいくというのは都合の良過ぎる話である。まずは農夫のように土を耕し、良い空気を入れ、種を蒔いて、水を与えて、日々日々少しずつ見守り、作物と一緒に育っていくしかない。そんな風に考えていた。そして普遍だとも思っていた。
2011年3月11日、その時、大きくて赤茶色に錆びたナイフが胸元から足元に向けて深く突き刺さった。僕はあっけに取られる。20才まで育った福島、グウタラで臆病な僕を何も言わず見守ってくれた福島に巨大で透明な影が覆い被さっている。僕はただただ震えていた。今までいつまでもある風景、変わらないと思っていた風景が汚された気がして現実を咀嚼できない。心は悲鳴をあげ、その後一気に枯渇した。そして故郷に自身が何か依存していたこともはっきりとした。
震災から2ヶ月、怖々と新幹線に乗って誰にも知られないようにひっそりと福島市の実家に帰った。貪るように自転車で1日中、生まれ育った周辺を巡っていると、そこには(何があったんですか?)と思わんばかりの普段通りの日常が有り、田んぼではいつも通り農作業をしている。自転車を止めて、ぼおーと水で満たされた田んぼを見ていた。水路で調節しているしわくちゃな帽子のおじさんが少しだけ大きな声で話し掛けてきた。「あんだの家も被害にあったがい?」とタオルで顔を拭い言った。「実家の瓦が...。」と伏し目がちに答えると、「たいへんだったない。」と人なつっこい顔で覗き込んできた。僕は思い切って聞いてみた。「みんなこんな時でもいつも通りなんだね?」すると、困った顔で「どうしようもねえもの。俺はこれしかやれねえんだがら...。」そしてもう一度、「んだって、やるしかねぇんだがら。」と繰り返した。それからおじさんとこの辺りの被害を話して、僕は日が沈もうとする農道を家に向かって自転車を漕ぎ始めた。少し濡れた帰りの砂利道で自転車に揺られながら震災後始めて涙が溢れてきた。どんな時も自分の役割を全うしている姿は嬉しくも悲しかった。
僕は今、良い絵なんて描こうと思っていない。ただ、みんなに忘れてほしくない情景を絵にしたいと思っている。そして(福島で感じてきたあの感覚は何であるのか。)それを1つでも多く表出しようと思う。そして、この先長い間、何があったとしても死ぬまでやろう。だって「これしか、俺にはやれることねぇんだから...。」